表紙 前文

 

 ?あ ?い 'い ?う 'う ?え 'え ?お 'お                             ?め   ?や  ?ゆ  ?よ       ?わ  ?ゐ  ?ゑ  ?ん  

 

 「いじめは人類が存在するかぎり無くならない。」と脳科学者の中野信子は言っている。いじめは理性をつかさどる前頭葉が生み出すものではなく、本能をつかさどる脳幹部分に近い場所と関係があるらしい。つまり、いじめはご飯を食べるとかウンコをするとかと同じレベルのことらしい。無くならないのは当然である。人類は社会性を持つことによって生存し続けることができた。ある仲間を作り、その仲間以外の人たちを排除することによって生き延びて来たのである。「仲間以外の人を排除すること」、それが「いじめ」である。仲間に引き込むことも排除なのである。なぜなら仲間でなかった自分というものが排除されるからである。仲間というのはそれ自体がひとつの小さな宗教であることを健常者は全く気づいていない。会社もまたそれ自体が宗教なのである。つまらない宗教を勧誘しているという事実に全く気づかないのである。私は現在清掃員をしている。清掃以外のことを私に期待することはやめるべきである。発達障碍者の私にコミュニケーションをおしつけるべきではない。またその努力をおしつけるべきではない。自分たちのルール、社会の常識をおしつけるべきではない。これだけの民主主義的法治国家になっても、なおいじめが無くならないのは、それが本能に近いことだからである。排除する人がいなければ無理矢理それを作りあげてまで排除しようとするのである。そうすることによって仲間の団結力・絆を維持しようとするのである。いじめる側は自分たちがやっていることをいじめだとは認識していない。なにしろ本能である。赤信号みんなで渡れば怖くない。仲間には属したくないと思っている人を無言のパフォーマンスで仲間に引き込もうとすること、それは充分いじめである。いじめる相手に対しての仲間同志の結束力はすさまじい。これだけの団結力はおよそ仕事の上では全く見ることができない。(仕事は前頭葉で行なうものである。)やはり人間の本能なのであろう。一糸乱れぬほどに行き届いている。いじめられる側から見ると、すがすがしいまでに喜んでいるようでさえある。録画して自分たちの顔を見てほしいものである。この人たちの子供は学校ではいじめる側なのであろうか、いじめられる側なのであろうか。「自分の子供はいじめる側である」と平然と言ってしまいそうである。実に能天気である。いじめられる側はたいてい一人である。いじめる側は多数である。職場以外の部外者まで動員することも普通である。大勢対一人である。一対一ではいじめとは言わない。後ろに大勢の人がひかえているので、実に勇気満々・自信満々である。何とも言えない優越感である。これほどの優越感はいじめ以外では味わうことができない。いじめはなくならないわけである。後ろに大勢がいるので自分たちのほうが正しいと錯覚してしまう。いじめのどこが正しいのであろうか。自分たちがやっていることがいじめではなく正しいと思っているのであれば、一人で立ち向かうべきである。一人であるならばそれはいじめではない。一人で立ち向かう勇気と自信のある人は一人もいないと断言してよい。なぜなら、一対一の場合は本能ではなく理性が必要だからである。理性では立ち向かえないから多数をくりだしていじめへと向かうのである。自分ひとりでは解決できないことを仲間の力を借りて解決しようとするその根性自体が嫌いである。いやなのである。手助けをする仲間も嫌いである。いやなのである。そのような人に普通に接することができるのが健常者かもしれないが私には出来ない。嫌いなものは嫌いなのである。私はいつも誰の力も借りずに自分の力だけで他人に接している。これまで、一対一で私に立ち向かう人に出会ったことがない。いじめる側にはそれなりの大義名分・言い訳・理由がある。「みんなと同調しないから」、「あなたとコミュニケーションがしたいだけなのだ」など。あなたがたとはコミュニケーションをするのがいやなのである。どうしてこんな簡単なことがわからないのだろうか。いやなものはいやなのである。続きは次回。

 

 

   ?め 

 

 (?め)は発音がむずかしい。「め」の前に「っ」を置くような感じ、あるいは、軽く「ぃ」または「ん」を置くような感じである。現在これを発音できる沖縄人が何名いるかわからないが、その人達の発音を実際に聞いてみるしかない。この発音から始まる語は次の一語のみである。次の語を、「めんせえん」と発音すると、俗っぽいあるいは平民的な発音となるらしい。つまりこれがただちにきちんと発音できる人は、いわゆる首里の士族の子孫であるということになる。なお、次の語の平民的?(一般的)な命令形の発音は、「めんそおれえ」であり、おなじみの琉球語である。首里語での発音は、「ぃめんしょおれえ」となる。4年近く首里語の辞書作りに接していると、この発音がなんとなく上品に聞こえてくるのが不思議である。

 

ぃ召候(めんせえ)ん@: (自・不規則) いらっしゃる。おいでになる。いる・行く・来るの敬語。同等および目上に対して用いる。居召(いめえ)ん、よりも丁寧であり、さらに丁寧には、居召候(いめんせえ)ん、となる。召候(めんせえ)ん、という平民的発音もある。 @先生(しんしい)ぬ,ぃ召候(めんしょお)而居(ちょお)ん。/先生がいらしている。 @ぃ召候(めんせえ)侍(びれ)え。/いらっしゃいませ。 @此処(くま)んかい,ぃ召候(めんしょおれ)え。/こちらへいらっしゃい。